第 3709 号2020.2.23
「黒のプレーントゥ」
染谷 學(横浜市)
今、私が履いている靴は、多分1970年代にアメリカ東部で製造、
購入された黒のプレーントゥ。ずいぶんとあやふやな言い方であ るが、というのも、この靴は頂き物である。 残暑というにはまだ暑かった9月、お二人ともゆうに90歳を越え ているお隣の老夫婦のご主人から「旦那さんに靴をプレゼントす るから取りに来てください」と有無を言わせぬ調子で電話をいた だいた。 子どももなく、身寄りのないお二人は、初めてお会いした頃に 既に70歳を超えておられらが、冬になると3ヶ月ばかりをハワイ で過ごし、春の便りを聞く頃に日焼けした元気な姿で戻って来ら れる、ハイカラなご夫婦だった。さすがにここ数年は、大半の時 間を施設で暮らし、たまに一晩ほど自宅で過ごすという生活をし ておられた。何かあってはいけないと室宅の電話番号をお知らせ したのだが、ある時は、一人で帰宅した主人が風呂に入るといっ たきり電話しても出ない。のびてるといけないので、ご主人様ち ょっと見てきてくださいませんか、と奥様から頼まれて意を決 して呼び鈴を押し続けるはめになったりした。 玄関先で「トライしてみなさい」と勧められた靴は、コツっとい う乾いた音をたてる革のソールで、光沢を失っていないしっかり とした靴であった。アメリカで買ったやつだ。ほかにもあるんだ、 といって背中をまるめた姿でスローモーションのように奥へと消 えていったが、そのまま戻ってくる気配もないので、大声でお礼 をいっておいとました。 それから何日もしないうちに、突然に家の取り壊しが始まった。 更地になった翌日、ご主人から、不動産屋が家を壊すといってい たが、もう壊しましたか、と尋ねる電話があった。妻が「はい、 もうすっかり更地になりました」と答えると「そうですか」と心 なしか寂しげに答えて切れたそうだ。 すっかり季節も変わり、もう電話はかかってこないが、この靴を 履くと、お二人を思い出す。